会社というのは、ときどき不思議なことをする。 たとえば、日本語が読めないのに、日本語から英語の翻訳を確認する仕事を任せるとか。 現実にそんなことが起きるなんて、昔の私なら信じなかったと思う。 でも今は、その現場にいる。笑えないけれど、まあ笑うしかない。
彼女はアメリカ人のエディガー(仮名)だ。 採用理由は「コピーライティングが得意だから」。 かつて、会社は「ネイティブによる読みやすいライティング」を売りにしていた。 なるほど、それは響きがいい。 けれど実際のところ、彼女は日本語がわからない。
一昔前までは、英語版だけの統合報告書を作る機会もあったため、 ネイティブエディターが実際に記事を書いたり、コピーを作ったりする機会があった。
しかし、今はどこの企業も統合報告書の和文と英文の両方を発行することが大半であり、 まずは和文を作ってから英文へと翻訳する。 弊社のエディターたちは、日本語のファイルをネイティブの翻訳者へ送り、 必要なやりとりを英語で行い、あがってきた翻訳に対して、 固有名詞や表現の統一、数字や意味が不明瞭になっていないかなどを確認した上で、 私たちコーディネーターに翻訳済みのファイルを戻す。
本来であれば、複数の翻訳者から上がったファイルに対しても、 エディターの手によって数字の単位(billionかmillionかなど)、 企業独自の固有名詞が統一されて上がってくることが望ましい。
しかし、彼女から上がってくる原稿は一切編集が加えられず、 通常、大量のコメントが書かれている。
わかりやすい例を挙げよう 彼女のコメント1「ここの翻訳がbillionになっているけど日本語で去年から表現方法が変わったのか?確認してほしい」
日本語の表記は変わっていないため、 去年とは異なる翻訳者が表記を変えて翻訳してしまったのだ。 これは日本語がわからない、という問題でもない。 7年もここで働いているのだから「百万円」の日本語の単位ぐらいはさすがに覚えているだろうし、面倒くさがらずに去年のレポートを見れば分かる話だ。
彼女のコメント2「取締役の役職名で、英訳に抜けがあるのではないか?確認して欲しい」
おい、この冊子のガバナンスページにも、その人の役職はあるだろう。さらに言えば、ウェブサイトや投資家向けの開示物を少し調べれば、和英で開示されているので分かる。つまり、レポートの内容を理解できないまま、翻訳を「確認」している。
翻訳者は日本語を理解している。 だから、もう答えは出ている。 問題は、彼女だけがそれを理解していないことだ。 質問が増え、チャットが増え、そして一日が終わる。 まるで薄い霧の中を歩いているようだ。 進んでいるのかどうかもわからない。
でも、人は不思議と慣れるものだ。 最初のうちは「なんでこうなるんだ」と思っていたけれど、 最近では「まあ、そういう日もあるさ」と思うようになった。 誰が悪いという話でもない。 ただ、そういう配置になっただけの話だ。
それでも、ふとした瞬間に考えることがある。 「うちの強みはネイティブによる読みやすいライティングです」
──あの言葉を最初に聞いた日の、自信に満ちた上司の顔を。
──英語を喋れず、彼女が理解していないのにも関わらず、ゆっくり日本語で大声で言えば、相手はきっと察して理解してくれると思っているその上司の顔を。
今思えば、あれも一種のキャッチコピーだったのかもしれない。 意味はよくわからないけれど、響きだけは悪くなかった。